2022年9月4日主日礼拝
最後まで耐える人は救いを得るだろう

またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

マタイによる福音書10章22節

勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。わたしはまた、彼に明けの明星を与える。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

ヨハネの黙示録2章26〜29節

人が生きていく時、問題があって、また答えがあります。問題が積み重なって解決できないから、これがものすごい危機になるのです。私たちが問題だけを持っているならば得るものがないし、人生を生きていくこともできません。でも、人生にはまた答えもついて来ます。人生は一言で言えば、問題と答えです。これを繰り返しながら生きていきます。

問題は、頭が痛いです。でも、問題がなければ、それによる行ないもないでしょう。問題があるから、問題に出会ったから、私たちはまた他のものを解決し、もっと違うものを得て生きていくことができます。人は誰でも問題に会い、また、そうして答えに会い、その問題を解決するようになったら、嬉しく、希望に満ちて生きていきます。

今日の本文の御言葉は、イエス様が福音を伝えて神様の御心である救いの歴史を最高に行なわれていた時、特に律法の信仰者たちが、イエス様を迫害し、憎むのをご覧になって心を痛め、イエス様を信じて従う人たちに、どうするべきかはっきりと話してくださった御言葉です。イエス様はその当時、イエス様を信じることで憎まれている人たちに、困難に対処し打ち勝つ鎧のような御言葉を、心情を注いで伝えてくださいました。

「あなたたちの中で最後まで私を信じ、耐える人は救いを得るだろう。あなたたちが私の名前によってすべての人々に憎まれるだろうけれども、最後まで耐える人は救いを得るだろう。憎まれても迫害を受けても、最後まで耐えなさい。そうしてこそ、永遠な救いを得るようになる。無知で愚かな人たちが知らずに憎むせいで耐えられず、信じて従う途中でやめたら、救いを得られなくなる。そうしたらあまりにも無念なのだ。彼らは、あなたたちが間違っているから憎むのではない。彼らが憎むのは、むしろ彼らが間違っていて分からないからだ。彼らが邪悪だから、その行ないがそうなのだ。彼らが死亡とサタンの主管を受けて、あのようにあなたたちを理由なく憎む。最後まで耐えて救いを得なさい」

皆さん信仰生活をする人たちにとっての最高の目的はなんでしょう。それは救われることです。人生の根本的な悩み、縛られていたところから解放されて自由になること、霊的肉的問題が解かれることです。神様がメシヤ・イエス様を遣わした御心は、救いを目的として遣わしたのです。だから、患難を受け無念でも最後まで耐えてこそ救いを得ます。三位一体とメシヤ・イエス様を信じている途中でやめたら救いが失われます。最後までやりなさいという御言葉が祈りの答えです。神様とイエス様の答えです。

ヨハネの黙示録1章8節は神様が「私はアルパでオメガ、初めで終わりだ」とおっしゃった御言葉です。初めから終わりまでやりなさいという御言葉です。イエス様を通しても神様は「みんながあなたたちを憎んでも、初めから終わりまでやりなさい」とおっしゃいました。

神様の歴史を見ると、アルパとオメガ、最初から最後まで「その中」にすべての計画が秩序正しくすべて入っています。神様は「最後」になっていないのに与えることはなさいません。始める時少しくださり、途中からもう少しくださり、終わる前にだんだんとたくさんくださって、最後に「最高のもの」をくださいます。全部やって終わった時、最後まですべてを、身をもって経験したら「さまざまなもの」をくださいます。神様はこのように働きかけます。

考えてみてください。職場でも仕事が全部終わってはじめて「月給」をくれます。日当をもらう人も、一日の仕事が全部終わってはじめて「日当」をもらいます。建築をする時も最初は「手付金」だけをくれます。そして仕事が全部終わったら「働いた対価」をくれます。

ところで、どんなことをするにしても、「さまざまな苦難・逆境・問題」は、最初にもあり、過程の中にもあり、最後にもあります。しかし、最後に苦難・逆境・問題がもっと多いです。「疑問と誤解」が解け、「それまで損をしたもの」を得て、「労苦の対価」をもらう時は終わった時です。神様もそれまで労苦したことの対価は「最後」にくださいます。だから、最後までやらなければなりません。

救いも「最後まで行なって耐える人」が受けます。最初はイエス様を信じて行なっても、最後まで信じることをせずに離れるなら、救いを得ることはできません。建築をするにしても、家も、最後まで完工をしてこそ、許可が下りて使えるようになります。建てかけて終わった家は使えません。自動車やすべての機械も最後までつくらなければ、正しく使用することができません。救いも最後までやらなければ救いが成されないのです。

オリンピックの時、さまざまな競技でもそうです。「最後までやった人」だけを認め、その中でメダルを与えます。マラソンで、最初と途中でいくら「一番」だったとしても、「最後までできず、途中で諦め、やめた人」にどうやってメダルをあげるでしょうか。「最後までやって結局勝利した人」がメダルをもらうようになります。

そのように、人生においても、信仰においても最後までやる人が勝利します。

神様と主キリストが共になされば、可能性が100分の1しかなくても、最後までやれば勝利します。これを座右の銘にして生きなければなりません。↓「全能者神様を信じていながら諦めるということはない。不可能なことはない。最後までだ」

聖書の創世記から黙示録までを読んでみると、最後までやった人たちは過去の疑問がすべて解け、天に属したものだけではなく、地に属したものまでもらいました。しかし患難・迫害・無念さ・大変なことに見舞われて、神様の歴史を誤解し、信じられないと言って信じず、さまざまな問題で、ついて来る途中やめた人たちは歴史の荒野の路程で倒れてしまい、神様が自分に計画なさった永遠な御心を成すことができませんでした。そして終わってしまいました。本当に「無念な人たち」になってしまいました。

何故か。彼らの現実の中では、彼らの現実には困難しかなかったのです。最後まで来られなかったから、その困難で終わってしまったのです。彼らの現実には問題がありました。しかし最後まで行かないから、それを解くことができず、中断されたその現実の中で、問題で終わってしまったのです。最後まで行けなかったから、やはり彼らは永遠に「疑問」を解けず、「誤解と無念さ」を晴らせず、「さまざまな問題」に悩みながら生きます。彼らが中断した現実が、まさに困難とつらさと誤解だったのです。そこで止まってしまったから、中断してしまったから、彼らはそういう無念さと疑問と問題の中に閉じ込められてしまったのです。

彼らは最後まで来ることができなかったことによって、「疑問・誤解・問題・無念さ・苦痛」で終わりました。最後までできなかったので、「答え」をもらえませんでした。

ある時はもっとよくなるようにしてあげようとして、願っているとおりにならないようにして、ほかの方法でしてくださる場合もあります。皆さん経験があるのではないでしょうか。祈っていたのに、祈りの通りにならなかったこと。そうするとがっかりし、失望し、躓きます。しかし、落胆せずに祈らなければなりません。神様を誤解してはいけません。過去過ぎた日にみんな死から助けてくださったし、罪から赦してくださったし、自由にしてくださいました。みんな最後まで行なってこそ、「個人の疑問、時代の疑問」がすべて解けます。

やっている途中には「神様の隠密な秘密」なので、おっしゃいません。最後までやってすべて完成したら、その時は「目」に見えるようになるから否定できません。だから、行なった人が見て悟るようになり、答えが見えます。

最後までやってこそ救いを得るという言葉は、私たちにくださる祝福の御言葉です。サタンと悪は、最後までやる資格者になれません。

問題が大きいか小さいかが問題ではなく、最後までやるかやらないかが問題です。最後までやる人が勝ちます。最後までやることが答えです。

人を育てる時も、先に「大きくなること」を教えたら、錬達を受けて自分を磨くことができません。またサタンと悪人たちも分かって、まだ大きくなってもいないのに、先に止め、妨害します。

だから神様は人間が最後まで行なうようにさせます。最後まで行なったら、目に見えるから確実です。だから自ら悟るようになり、そのとき神様はおっしゃいます。

大きいことは先に分かったら、意識し、気になって、負担になって、むしろできません。だから、大きいことはいつも隠密に行ないます。

ヨハネの黙示録17章14節を読むと、「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。ここでもやはり神様が遣わしたメシヤ・イエス様と共に最後までやれば勝つとおっしゃいました。

イザヤ書10章23節に「主、万軍の主は定められた滅びを全地に行なわれる」とあります。全知全能なる神様は初めであり終わりなので、始まりから一度決定したら最後まで行なわれます。私たちも神様を愛して信じるから、神様と聖霊様の御心の中で最後まで行なってこそ、得るべきものを得て、希望が成されます。

イエス様はこの世を去る時まで十字架の上で「この人たちは知らずにやっていることだから、神様、赦してください」と言いました。私たちも主イエスの中で最後まで愛して生きてこそ、願う希望を成します。

今日は、最後までやってこそ勝つ、というメッセージです。

しかし最後までやることは簡単ではありません。難しいのです。行っている途中で、逆境にたくさん逢うのです。雨風に遭うし、艱難に遭うし、問題にもぶつかるし、迫害もあります。でも、それを乗り越えたら、新しい景色が見えます。全く別世界です。

みんな今日の御言葉を聞いて、決心し、御言葉どおりに最後まで生きていくことを

祝福します。アーメン。